プログラム データベース・ミーティング:Less Than Nothing, Chap.4: Is It Still Possible to Be a Hegelian Today? よりHegel versus Nietzsche 節(pp.195-196/¶7-11) 発表(小川歩人(大阪大学)):「不可能なものとは別の仕方でとは別の仕方で… 」——日本におけるデリダ、ラカン、ジジェク受容」
概要報告 データベース・ミーティング データベース・ミーティングにおいては、今回も引き続きLess Than Nothing, Chap.4: Is It Still Possible to Be a Hegelian Today? のHegel versus Nietzsche 節が扱われた。 ヘーゲル以後の論者が無視していたものこそ重要なのだ、という論(前回の範囲)を背景に、フランスの哲学者Gérard Lebrunによる「ニーチェ」的なヘーゲル読解(L’envers de la dialectique)を補助線として議論が展開される。否定性の捉え方で、いわゆるヘーゲル的な見方とニーチェ的な見方が対比される。すなわちヘーゲルにおいては否定性という過剰なるものは結局、総体性、肯定的な全体の契機に回収されてしまうのに対して、ニーチェからすればそこには否定性それ自体に対する肯定的な眼差しが欠けている。とはいえこれは「いわゆる」見方であり、次節”STRUGGLE AND RECONCILIATION”で展開されるジジェク自身の論を検討していきたい。 各所への具体的なコメントについては本ページに添付の資料を確認のこと。 来月はLess Than Nothingより、Chapter 8: Lacan as a Reader of Hegelを扱う。
今回の研究会では、2件の研究発表を行いました。まず客本敦成(大阪大学大学院、本報告執筆者)が、現在のマイクロアグレッション研究を巡る哲学的研究の現状と今後の方向性を議論しました。具体的には、Jeanine Weekes Schroerの論文”Giving Them Something They can Feel: On the Strategy of Scientizing the Phenomenology of Race and Racism”における、マイクロアグレッションの被害者の「証言」についての問題提起を紹介したうえで、ジュディス・バトラーの「反覆」という概念を導入し、「証言」を言説の運動のなかで位置づけることの必要性を主張しました。 次に奥村晴奈(大阪大学大学院)が、マイクロアグレッション研究とアーヴィング・ゴフマンのスティグマ論を比較検討しました。ゴフマンの「可視的なスティグマ」「不可視的なスティグマ」という区別を導入することによってマイクロアグレッション現象のより精緻な分析がなされることが期待される一方で、ゴフマンのスティグマ論における「相互行為」という前提がマイクロアグレッション現象の前提と完全に重なるわけではなく、今後も見当が必要であることが主張されました。 次回も引き続き研究発表を行う予定です。