大阪大学
大阪大学大学院人間科学研究科 附属 未来共創センター
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第29回ジジェク研究会

日時:2025年12月20日(土) 13:30〜17:00
場所:Zoom(オンライン)
参加人数:13名

1. ジジェク研究会:”〈世界の夜〉とヘーゲル的主体 ジジェクにおける主体と実践の思想”【発表者|池松辰男】
2. ジジェク研究会:”グレマスの記号論的四辺形とヘーゲルの反省規定論 ジジェクによるヘーゲル読解の理解に向けて(2)”【発表者|三重野清顕】

第29回ジジェク研究会では、研究発表を二件おこなった。
 第一発表の池松発表では、ジジェクによるヘーゲル解釈を踏まえたうえで、ヘーゲル哲学の実践的意義を検討した。
 ヘーゲルは(主にマルクスと対照されるかたちで)保守的な思想家と考えられてきたが、ジジェクはヘーゲルに独創的な解釈を施すことで、その実践的意義を強調してきた。池松の発表は、こうしたジジェクの解釈を踏まえつつも、独自の観点からヘーゲルの草稿『イェーナ体系構想Ⅲ』を読解することで、ヘーゲル哲学の革命性を主張した。池松によれば、ジジェクも注目する「世界の夜」というヘーゲルの表現は、ヘーゲルが構想力を論じるにあたって用いた表現であり、意識的・表象的な思考に還元されない主体の活動性を論じることを可能にしている。本発表はジジェクの問題意識を受け継ぎつつヘーゲルのテクストの解釈に立ち戻り、ジジェクとヘーゲルの政治的可能性を積極的に引き出そうとするものであった。質疑応答では、ヘーゲル研究者だけでなく、ラカン研究者からも積極的な質問が寄せられ、池松が提示するヘーゲル解釈とラカンの対応関係が議論された。
 第二発表の三重野発表は、ジジェクによるヘーゲル解釈を、特にジュリアン・グレマスの四辺形との関係から検討するものであった。ジジェクは初期著作から一貫して、ヘーゲルの弁証法構造を、三項関係(eg. 正・反・合)ではなく、四項関係として理解してきた。三重野はこのジジェクの解釈が、記号学者グレマスの「グレマスの四辺形」の議論を踏まえて展開されていると主張したうえで、特に『もっとも崇高なヒステリー者』における様相論(必然性・可能性・不可能性・偶然性)という問題に即して、ジジェクの議論の内実を検討した。本発表は、錯綜したジジェクの記述を、「グレマスの四辺形」を用いることによって整理し、ジジェクにおける必然性と偶然性の関係を明らかにした。質疑応答では、アリストテレスや現代論理学といった、より広範な事例にも言及されながら、論理学史におけるジジェクの主張の意義が確認された。
 詳細な議論の内容に関しては、添付資料を参照のこと。

※科学研究費基盤B(23H00573)「スラヴォイ・ジジェク思想基盤の解明:ヘーゲル、ラカン解釈を中心に」
 研究代表者・野尻英一
 文責|客本敦成(比較文明学)

現代思想研究会 2026年2月 活動報告

活動日|活動日|2026年2月4日
文責|池田信虎(共生の人間学)

 今回の現代思想研究会では大阪大学の葛西李成氏によるご発表と東京大学の坂本美理氏による博士論文に関するご報告を頂戴いたしました。
 葛西氏はカントの『判断力批判』における自然概念についてご発表いただきました。
 坂本氏のご報告題目は「親の責務をめぐる倫理学的研究:役割とケアに着目して」です。坂本氏は博士論文にて、従来の生殖責任説を批判したうえで、子どもの脆弱性に応答する〈ケアする役割〉としての親を、継続的かつ反省的なコミットメントに基づく道徳的親性の規範的基礎として再構成する理論をご提示されました。
 次回以降の研究会日程・内容については、決まり次第あらためてご案内いたします。

 

 

障害者の防災講習会と交流会


「めげない!くじけない!あきらめない!」
2月1日(日)13:30〜15:30、福知山市身体障害者相談員会主催による「障害者の防災研修会と交流会」が、京都府福知山市総合福祉会館にて開催されました。
当日は、身体・知的・精神障害のある方々やそのご家族、自主防災ネットワークの方々、市職員など、約45名の方が参加しました。
はじめに、福知山公立大学の大門准教授より、『星の王子さま』の一節「本当にたいせつなことは、目に見えないんだよ。」を引用しながら、目に見えないからこそ、みんなで考える必要があることについてお話がありました。あわせて、能登半島地震の事例を紹介しつつ、障害当事者やその家族が避難時にどのような困難に直面するのかについて、具体的な説明がなされました。
その後、参加者は6班に分かれ、「クロスロード」を行いました。クロスロードは、京都大学の矢守克也教授らが開発したカード型の防災教育教材で、カードに書かれた事例を自分ごととして考え、YESかNOかで意思表示をしながら、参加者同士で意見交換を行うゲーム形式の教材です。重要なのは正解を導くことではなく、さまざまな立場や状況を想像しながら、問題について考える点にあります。
ここでは、聴覚障害のある方を想定した設問と、避難所スタッフにとって対応が難しい薬の管理に関する設問を取り上げ、参加者全員で考えました。どの班でも議論は活発に行われ、問題を通して多様な状況や立場を想像しながら、非常に有意義な意見交換がなされました。
 特に印象に残ったのは、参加者の方から「めげない!くじけない!あきらめない!」という言葉が出てきたことです。避難所生活における困難な場面を想定した内容ではありましたが、その方は、日頃から「めげない!くじけない!あきらめない!」という思いで生活していると語られていました。

現代思想研究会 2026年1月 活動報告

 

活動日|2026年1月16日
文責|池田信虎(共生の人間学)

今回の現代思想研究会は「博論報告会」として開催され、辰己一輝氏と池田信虎氏の二名がそれぞれの博士論文に基づいた報告を行いました。辰己氏は「健常主義の生成と構造──唯物論的アプローチからの探究」と題し、障害学の観点から健常主義という社会規範がどのように形成・再生産されるのか、そのメカニズムについて唯物論的な分析を提示しました 。池田氏は「ミシェル・フーコーにおける権力の誕生 ―ポスト・トゥルース/フランス・エピステモロジー/個人一」と題して、フランス・エピステモロジーの系譜とフーコーの権力論の関わりを軸に、その思想的全体像を報告しました 。次回の研究会は1月末から2月初旬頃、東京大学の坂本美理氏をお招きして博士論文に関する報告をいただく予定です。

 

人+文 哲学研究発表会

2025年12月20日(土)に開催された哲学の実験グループオープンラボ公認イベント「人+文 哲学研究発表会」は、総勢14名(発表者6名)が参加した大盛況のイベントとなった。当初、人間科学研究科と人文学研究科の交流を目指して開かれたこの研究発表会は、結果として学部生や他大学の大学院生までを巻き込んだ大規模なものとなった。各発表者の研究内容も多様であり、幅広い主題について、専門領域や出身大学の垣根を超えた対話を行う機会を提供することが出来た。
 藤山諒子(大阪大学人間科学研究科)氏の発表は、文化人類学者の松田素二および小田亮の議論を踏まえつつ、文化相対主義の限界点として立ち現れる異文化との「共役不可能性」について、理論的に探求するものであった。藤山氏はこの共役不可能性の正体を未規定な社会的状況において生じる「関係の両義性」に見出しつつ、それを〈共に〉引き受ける態度を、多文化との共生を可能にする理論的源泉として提示した。藤山氏の研究は他者との共生の困難さを見据えつつも、それを内在的に乗り越える理路を示唆した、意義深いものであった。
 葛西李成(大阪大学人間科学研究科)氏の発表は、イマニュエル・カントの『判断力批判』崇高論の読解を基礎に、カント美学と『純粋理性批判』および『実践理性批判』との接続可能性を提示するものであった。葛西氏は『純粋理性批判』超越論的感性論における無限性の議論に理性理念の潜在的な作動を読み解きつつ、理性の無限性が現前する瞬間として『判断力批判』崇高論を再解釈し、実践哲学との接続の理路を示した。葛西氏の研究は、カント批判哲学における無限性の主題の展開を描き出しつつ、『判断力批判』の再解釈を迫る意欲的なものであった。
 若松黎奈(京都大学法学研究科)氏の発表は、アメリカの政治理論家ジュディス・シュクラーの議論を踏まえつつ、現代におけるリベラリズムのあるべき姿について問うものであった。若松氏はシュクラーの一連の著作において提示される「恐怖のリベラリズム」概念に基づき、リベラルな諸価値を権威主義的に説き続けるだけの冷戦リベラリズムを批判しつつ、政治的自由の確保のための制度的・実践的介入にリベラリズムの新たな役割を見出した。若松氏の研究は、リベラルな諸価値がその政治的有効性を失いつつあるように思える昨今の国際的な状況を、政治理論の視点から問い直すアクチュアルなものであった。
 高橋菜穂氏(大阪大学人間科学研究科)の発表は、現代物理学の知見によってその立ち位置が揺らいでいる「因果性」の概念について、エルンスト・カッシーラーの議論を参照しつつ再定義を行うものであった。高橋氏によれば量子論における不確定性原理は、因果性と連続性を結びつけて捉えていた古典力学の前提を全面的に問い直すものであり、時間的連鎖ではなく構造的対応関係に結びついた新たな因果性概念を要請する。高橋氏の研究はカッシーラーの議論を現代の量子力学の哲学の文脈で読み解くと同時に、近代認識論の全般的な書き換えの可能性までも視野に入れた重要なものであった。
 萩原一馬氏(大阪大学人文学研究科)の発表は、ハンナ・アーレントの人権論の鍵概念である〈諸権利を持つ権利〉を保証するものとして、これまでの研究では見過ごされてきたアーレントの連邦論に光を当てるものであった。萩原氏はアーレントの著作の丹念な読解に基づきつつ、国家の領域を超えた人類規模での合意に基づく国際法の領域に、〈諸権利を持つ権利〉の具体的保証を見出す。萩原氏の研究はアーレント解釈に新たに法哲学的展開をもたらす斬新なものであるだけでなく、諸国家を超えた共同体の形成というますます切実となりつつある政治的課題への理論的示唆を与えるものでもあった。
 山本泰地氏(大阪大学人間科学部)の発表は、ジュディス・バトラーの読解に基づきつつキャロル・ギリガンらの「ケアの倫理」を批判するものであった。山本氏はバトラーの立場から、ケアする者/ケアされる者あるいは女/男という固定的なアイデンティティを形成してしまう危うさを含んだギリガンらの議論を批判しつつ、絶えざる異議申し立てと主体の脱構築の契機を内包した倫理的・政治的主体の理論的可能性を示した。山本氏の研究は「ケアの倫理」が人口に膾炙して久しい現代の言論空間に対し、その批判的乗り越えと新たな可能性を突きつける、野心的かつ説得的なものであった。

 

第28回ジジェク研究会

日時:2025年11月15日(土) 13:30〜17:00
場所:Zoom(オンライン)
参加人数:11名

1. ジジェク研究会:”ポスト/ヘーゲル主義者としてのジジェク
――Less Than Nothing におけるヘーゲル的反復とその限界”【発表者|飯泉佑介】
2. ジジェク研究会:”移民・トラウマ・ケア——ジジェク主体論と日本に暮らすミャンマー人たちの生の交錯(Migration, Trauma, and Care: The Intersection of Žižek’s Theory of the Subject and the Lives of Myanmar Migrants in Japan)”【発表者|吉田尚史】
 第87回ジジェク研究会では、研究発表を二件おこなった。
 第一発表の飯泉発表では、スラヴォイ・ジジェクがヘーゲル解釈の中でしばしば論じる「ヘーゲル的反復」が検討された。
 ジジェクは博士論文『もっとも崇高なヒステリー者』以来、繰り返しヘーゲルにおける「反復」を問題としてきた。すなわち「遡行的遂行性」とジジェクが呼ぶヘーゲルの論理において、未来はそれが訪れたあとで、事後的に再構成されるものである。
ジジェクはこうしたヘーゲルの論理のうちに、時間が常に偶然性に開かれたものであるという「純粋反復」のアイデアが前提されていると指摘する。ただしジジェクによれば、ヘーゲルは「純粋反復」を十分に論じるには至らなかった。そこでジジェクはヘーゲルの「限界」を指摘することになるのだが、飯泉はこれに対してジジェクのいう「純粋反復」の契機をヘーゲルのうちに見出すことは可能であると指摘し、それにも関わらずジジェクがこのような主張をおこなう理由を分析した。
 飯泉の発表は、ジジェクにおけるヘーゲル解釈という根本的な課題を「反復」という主題に即して検討しつつ、ジジェクが指摘するヘーゲルの限界に反対することで、ヘーゲル哲学の現代的意義をも主張するものであった。
 質疑応答では、飯泉が必ずしも主題的に扱わなかったジジェクのラカン解釈やドゥルーズ解釈にも触れられ、議論の更なる展開の可能性が探られた。
 第二発表の吉田発表は、ジジェクにおける主体論を援用し、ミャンマーから日本を訪れる移民・難民の主体性について考察するものであった。
 ジジェクは論文「デカルトとポストトラウマ的主体」において、現代社会が主体の象徴的な安定性を揺るがす「外傷的社会」であることを指摘する。こうした社会において、主体は自身の欠如や不完全さに直面しつつ、自分自身を再構成することによって生きていくほかない。
 吉田はこうしたジジェクの議論を踏まえつつ、ミャンマーからの移民の主体化という事例を取り上げ、また、ケア論における主体編成の議論を参照することで、ジジェクが論じた主体の再構成を、より具体的に、かつ、他者との具体的な関係のなかで展開されるものとして分析した。
 吉田の議論は、一見抽象的に思われるジジェクの議論の有効性を、経験的な事例の分析によって示すと同時に、ケア論という、他者との関係を論じる理論にジジェクの主体論を接続するという点において、希少な試みであったと言える。
 質疑応答では、精神分析の研究との比較が検討されたほか、カトリーヌ・マラブーとジジェクの主体性をめぐる立場の違いが紹介されるなど、多分野からのコメント・質問がなされた。
 詳細な議論の内容に関しては、添付資料を参照のこと。

※科学研究費基盤B(23H00573)「スラヴォイ・ジジェク思想基盤の解明:ヘーゲル、ラカン解釈を中心に」
 研究代表者・野尻英一
 文責|客本敦成(比較文明学)

第27回ジジェク研究会

日時:2025年10月18日(土) 13:30〜17:00
場所:Zoom(オンライン)
参加人数:13名

1. ジジェク研究会:”フェティッシュから異物へ ジジェクにおける対象aの地位の変遷”
【発表者|片岡一竹】
2. ジジェク研究会:”革命か和解か?——ジジェクにおける否定性と無限判断の行方(仮)
Revolution or Reconciliation? The Fate of Negativity and Infinite Judgment in Žižek (tentative)”
【発表者|野尻英一】

 第27回ジジェク研究会では、研究発表を二件おこなった。
 第一発表の片岡発表では、スラヴォイ・ジジェクが用いる「対象a」概念の変遷が検討された。「対象a」は、もともと精神分析家のジャック・ラカンが用いた概念であるが、ジジェクはこれを独自の仕方で受容し、自分の議論に取り込んでいる。
 まず、(50年代の)ラカンに関する基本的な見方によれば、対象aとは、ファルスの欠如を想像的な仕方で示す対象である。対象aは不在の対象として定義されるが、対象aが不在であることは、人間主体が有する根本的な欠如がそこにおいて示されていることを表している。それゆえラカンとジジェクにおいて、対象aは、その空虚さが暴かれることによって主体の真理が明らかにされるフェティッシュとして位置づけられる。
 ただし60年代においてラカンはこうした欠如を示すものとしての対象aという定義から離れ、むしろ欲望の原因として、ファルスから独立した位置づけを与えられるようになる。こうした定義にあっては、対象aは単に乗り越えられるべき障害ではなく、むしろそれを求めることが主体に秩序の転覆をもたらすものとして位置づけられる。ジジェクは対象aのこうした側面もラカンから受容し、対象aを求める主体に政治的革命の可能性を見出している。
  片岡の発表は、ラカン研究の立場から対象a概念の整理をおこなったうえで、ジジェクがそこからどのような政治的含意を引きだしているかということを示すものであった。論の運びは明晰であり、質疑応答でも片岡発表を踏まえたうえでの発展的な議論が交わされた。
 第二発表の野尻発表は、主に『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』におけるジジェク・バトラー・ラクラウの論争を踏まえたうえでジジェクの肯定的な側面を評価し、現実の政治・倫理的課題に対してジジェク哲学が持ちうる点を主張するというものであった。
 野尻によれば、ジジェク・バトラー・ラクラウの三者において問題となっているのは「歴史性」の問題である。一方でマルクス主義の単純な唯物史観を退けつつ、他方で単なる歴史に対する不可知論を回避するために、三者は主にヘーゲル哲学を出発点としつつ、論争を展開している。
 そのなかでジジェクは、バトラーやラクラウが主張する、永続的なヘゲモニー闘争および脱構築を続けるという「カント主義」を批判し、「汚染された普遍性」というアイデアを導入することで、ヘゲモニー闘争という枠組みそのものを規定するものとして階級闘争を位置づけようとする。
 野尻はこうしたジジェクの「歴史化」のこころみを評価する一方で、ジジェクが主にラカンの「現実界」概念に依拠するために、表象や想像力の役割を十分に考察していないことを批判する。そこで野尻はスピヴァクの植民地主義についての考察などを参照しつつジジェクの議論を修正し、より説得的な歴史理論を提案することを試みた。
 野尻の発表は、「弁証法的唯物論者」を自認するジジェクの唯物論(歴史哲学)としての立場を積極的に評価したうえでその限界と課題を指摘するものであった。質疑では、ジジェクの立場にかんするより踏み込んだ議論がなされ、歴史と享楽の関係の考察の必要性が指摘された。

※科学研究費基盤B(23H00573)「スラヴォイ・ジジェク思想基盤の解明:ヘーゲル、ラカン解釈を中心に」
 研究代表者・野尻英一
 文責|客本敦成(比較文明学)

現代思想研究会 2025年5月-2025年11月 活動報告

 

活動日|2025年5月30日、6月30日、7月21日、8月24日、9月29日
文責|客本敦成(比較文明学)

 2025年5月から11月にかけて、下記の活動をおこなった。なお、活動内容はすべて研究発表である。また、10月および11月も活動予定であったが、発表者および主催者の都合により中止となった。

 5月30日には、片倉悠輔氏による発表をおこなった。ヘーゲル『精神現象学』の後半を主な分析対象とし、『精神現象学』の叙述のうちに資本主義社会の生成の論理を読み取ろうと試みるものであった。質疑応答では、マルクスおよびフーコーの歴史叙述とヘーゲルの叙述の違いが議論され、ヘーゲルにおいて構想力の役割が大きいことが指摘された。

 6月30日には、林宮玉氏および板野史紀氏による発表をおこなった。林氏の発表は、20世紀フランス思想におけるサド論の系譜を検討するものであった。特にモーリス・ブランショによる死の欲動概念の導入が重要な役割をもつことが指摘された。質疑応答では、精神分析における欲動概念と、文学批評における欲動概念の異同が議論された。
 板野氏の発表は、アンリ・ベルクソンにおける「良識」概念の理論的ポテンシャルを引きだそうとするものであった。板野氏はベルクソンのドン・キホーテへの言及に注目し、一見するとドン・キホーテには「良識」が欠けているように思われるものの、ベルクソンの記述は必ずしもドン・キホーテのうちにある「良識」を認めないとは限らない、という解釈を示すことを試みた。質疑応答では、ベルクソンの理論的意義と限界をどのように考えるかという観点から議論がなされ、板野氏の解釈の意義が改めて確認された。

 7月21日は、毎床玲音氏による発表をおこなった。ただし、内容は公開に適さないものが多く、詳細の報告は省略する。文学研究の立場から、他者との共生の可能性を模索する、理論的な試みであった。

 8月24日には、雪丸温翔氏と葛西李成氏による発表をおこなった。雪丸氏の発表は、アシル・ムベンベにおける「鏡」の形象を扱うものであった。ムベンベは「鏡」という形象を、精神分析家ジャック・ラカンの鏡像段階論から引き出しつつも、独自の意味を与え、植民地主義の批判的分析における理論的装置とした。質疑応答では、スラヴォイ・ジジェクなどラカン派の理論家とムベンベの距離の近さが指摘された。
 葛西氏の発表は、イマニュエル・カントにおけるブルーメンバッハ受容を検討するものであった。カントは『判断力批判』において非有機的なものと有機的なものをはっきり区別しているように思われるが、同時に両者を包括するような自然哲学をも議論していた。こうした立論にあって、ブルーメンバッハの「形成衝動」概念が重要な役割を果たしている、というのが葛西氏の主張であった。質疑応答では、カントの体系全体と葛西氏の解釈の関係が議論された。

 9月29日には、客本による発表をおこなった。ジャン・イポリットによるヘーゲル解釈を軸とし、ヘーゲルとラカンの比較をおこなうものであった。ラカンはヘーゲルとかなり近い思想家であると言えるが、「欲動」概念はむしろヘーゲルから離れる側面を有している、という主張がなされた。質疑応答では、イポリットのヘーゲル解釈を参照することの妥当性について議論され、ジジェクのヘーゲル解釈を参照するべきではないか、という指摘もなされた。