シンポジウム『“寂しさをなくすこと――中山間地域の活性化を「さみしさ」から捉え直す 』
日時|2026年2月27日(金) 13:00〜17:00
場所| 大阪大学人間科学研究科棟51講義室
文責|米田沙由葵(比較文明学)【シンポジウムの詳細】
1人目の講演者である作野広和氏(島根大学・人文地理学)は、人口減少と地域政策の歴史的経緯を踏まえながら、成長志向型の地域政策の限界を指摘した。
1970年代にはすでに少子化が予測されており、1972年の『成長の限界』でも持続可能性の問題は提起されていた。しかし、その後も日本社会は拡大や維持を前提とする政策を続けてきた。1990年代以降は「地域活性化」という語が広く用いられ、2010年以降の増田レポートや地方創生政策においても、人口維持や減少幅の縮小といった量的対策が中心であった。
これに対し、量的対策ではなく、人口減少を前提とする質的転換が必要であるとして、「縮充」や「むらおさめ」といった概念が紹介された。地域を無理に活性化するのではなく、豊かに縮小していくという発想である。
とりわけ「むらおさめ」は、村を「たたむ」のではなく主体的に「おさめる」営みであり、医療分野で用いられるACP(アドバンス・ケア・プランニング)の考え方を応用する可能性が示された。ここではQOLとは異なるDOL(dignity of life)という視点が示され、集落住民は不安を抱えながらも必ずしも不幸ではないという認識が共有された。「地域活性化しなければならない」という呪縛からいかに自由になるかが、今後の大きな課題となる。2人目の講演者である権藤恭之氏(大阪大学・老年学)は、兵庫県朝来市を事例に、人口減少社会における地域実践の可能性を紹介した。ここで、高齢化が始まったのも少子化と同時期の1970年代であったがデータが隠されてきたことを示した。
朝来市は「住みたい田舎ベストランキング」総合1位と評価され、社会的資源が豊富で世代間交流も比較的高い地域である。空き家バンクの活用、神社の氏子制度、地域イベント、健幸づくり推進課の取り組み、日本コミュニティ・シェッドの活動などが紹介された。
同時に、集落ごとのつながりの弱さという課題も指摘された。高齢者が畑仕事を続けられるのは、周囲との関係があってこそであり、孤立すれば営みは持続しにくいという現実も共有された。
印象的であったのは、「何をするかというと、特に何もしない」という姿勢である。賑わい創出や活性化を急ぐのではなく、静かな時間の中で関係が保たれることの価値が語られた。
また、風の人(Iターン)として地域に入る立場や、自給自足的基盤の構築など、外部性と内部性の交差も示された。3人目の講演者である石原真衣氏(北海道大学・文化人類学)は、「寂しい」という言葉をポジティブに捉え直す可能性を提示した。
寂しさを単に解消すべきものとみなすのではなく、「寂しい」と発せられたこと自体をどのように受け止めるかが問われた。また、日本のダイバーシティ振興や人権教育の不十分さ、記号化によって奪われるものの問題が指摘された。
人権からの疎外、差別や痛みに時効はないという視点などが提示された。高齢者による障害者差別など、複雑な差別構造にも言及があった。
研究の暴力性も批判された。専門家は当事者を単色化し、意味を塗りつぶしてしまう危険がある。これに対し、オートエスノグラフィーは客観性を手放し、違和感に徹底的にこだわる方法として紹介された。研究者ができることは結論を与えることではなく、当事者の言葉が生まれるための土壌を耕し、回路をつくることであると整理された。4人目の講演者である渥美公秀氏(大阪大学・災害ボランティア学)は、「恊働的実践」という方法論を提示した。
研究として成果がどうなるか分からなくとも、まず現場に入ることが重要であるとされた。協働的実践は短期間で終わる場合もあれば、数年に及ぶこともある。住民の方から「先生は何もしてくれない」と言われたことが一番嬉しかったという語りは、現場との関係性の深まりを象徴していた。
また、「参加」や「参画」という言葉を正面から掲げるのではなく、実践を通して自然に生まれる関わりの重要性が示された。そこでは「集合的主体」という概念も提示され、一人ひとりは頼りなくとも、集合することで主体性を持ちうるとされた。
この主体のあり方を踏まえたとき、「尊厳ある縮退」という考え方が提示された。それは単なる後退ではなく、豊かに縮小し、意義を保ちながら退いていくことである。外部者から一方的に方向づけられるのではなく、当事者自身が主体的に終わりを引き受けることの重要性が強調された。
さらに、集落の今後を考える具体的な視座として、医療分野で用いられているホスピスの応用可能性も示唆された。パネルディスカッションでは、ファシリテーターである村上靖彦氏(大阪大学・現象学)から、主に①ACPとホスピス、②人権の問題、③ジェンダーの問題、という三つの観点から議論が展開された。
ディスカッションでは、農村地域においては集落が最小単位であり、当事者単位での意思決定という点ではACPの枠組みが参照可能であることが示された。一方で、老年期においては死を具体的に想定することへの抵抗が強く、ACPが進みにくい現実も指摘された。そのため、明確な決定を迫るACPよりも、終わりに向けた過程を支えるホスピスの思想の方が適合的ではないかとの意見が示された。
ジェンダーの問題では、寄り合いを男性が担い、女性が裏方を支えるといった分業構造が共有された。こうした役割分担は集落の運営を支えてきた一方で、その枠組みに収まらない主体を生み出している可能性も議論された。
フロアからは、「集落を主体的に閉じる」という発想が、かえって否定的な方向へ作用する可能性があるのではないかとの指摘があった。主体的な終わり方を肯定することが、閉鎖や切り捨ての論理へと転化する危険性について懸念が示された。
これに関連して、渥美氏は安楽死をめぐる議論を参照し、「悪い生」の反対は「良い死」ではなく、「良い生」であることに触れた。そのうえで、抽象的に終わりを論じるのではなく、「この人(あるいはこの集落)にとって、いま何を行うべきか」という具体的な問いを立てる必要性を強調した。
また、作野氏は「むらおさめ」という表現にこだわりたいと述べた。全集落のうち5%占める限界集落の中の、さらに一部の集落に対する概念であり、この5%を10%へ拡大させることはないと強調された。
加えて、第二次世界大戦終結から80年が経過した現在においても、農村・都市を問わず昭和的価値観を引きずっている可能性があるとの意見が出された。特に、団塊世代の成功体験や栄光の記憶が、地域の意思決定や将来像に影響を与えているのではないかという問題提起がなされた。
【シンポジウムの考察】
本シンポジウムを通して明らかになったのは、「寂しさ」を単なる感情として捉えるのではなく、その言葉がどのような社会的文脈の中で発せられるのかを問い直す必要があるという点である。寂しさは個人の内面に閉じた問題ではなく、それを取り巻く社会構造と不可分である。
地域活性化の枠組みのもとでは、縮小は失敗や敗北として語られてきた。しかし、「縮充」「縮退」「むらおさめ」といった概念は、縮小を肯定的に引き受ける視座を示している。それは、減少を否定するのではなく、尊厳を保ちながら地域の時間を重ねていく可能性を提示するものである。
また、本シンポジウムには人間科学研究科の教職員・学生のみならず、他学部の学生や学外一般からの参加もあり、分野や立場を越えた議論の場が形成されたことも特筆すべき点である。参加者からは、学際的で内容の濃いシンポジウムであったとの感想が寄せられ、多角的な視点から議論を深めることの意義が確認された。
寂しさをなくすとは、寂しさという言葉そのものを消去することではない。むしろ、寂しさを語りうる回路をつくること、違和感に耳を澄まし続けること、そして住民が笑顔でいられることを支える社会的基盤を整えることである。
本シンポジウムは、社会問題を考える際に単一分野に閉じるのではなく、分野間の開かれた対話の必要性を改めて提起する契機となった。2026年02月27日 吉成哲平撮影
